こんばんは。
今冬は雪がとても多いのでほぼ毎日、雪かきをする為に戸外に立つのですがーーー氣温が0度を下回っているとされるときでもそれは適度に暖かく心地よく感じられます。
いやそれは雪かきをしたから身体が温まったんだろう?と思われる方もおられるか知れませんけどそうじゃなく。
本当に、その世界に立つと暖かいのです。
さて前回の記事で「コロナウィルスも「愛」でしかない」とお伝えしました。
本質においてはすべてが愛なので当然といえば当然というだけの話しなのですがーーー人間は自分にとって都合が悪いものであると見做した途端にそうは思えなくなるのが常です。
また人によっては鬱積した感情なども相まって極端な反応になることもあるか知れませんけどあなたはいかがでしょう?
斯くいうわたしもその名残りが思いがけず顔を出すことはあります。
がその瞬間それに氣づいたかどうか? 氣づいているかどうか? がその分岐点であることはいうまでもありません。
つまりそれに氣づかずただ流されるままに巻き込まれているのだとしたら無自覚かつ無意識に生きているーーー要は能動的にあるというよりも、あくまで受動的であるということがわかります。
それは例えば、わたしは「怒っている」というよりもなにかしらに「怒らされている」といえますがこの違いにお氣づきでしょうか?
そう、主体的に「わたしは」怒っているというよりもそれは従属的に「なにかしらによって」怒らされている、という矛盾。
要するにわたしが「そうしている」のではなくなにかしらに「それをさせられている」状態であることがおわかりいただけるかと思います。
つまりふとでもそれに氣づかず、なにかしらに「そのように仕向けられて」そうしているとき決まってあなたは無自覚に無意識に生きているといえるのです。
ではその「なにかしら」とは何なのか?
それがズバリ他者であったりエゴつまり自我であったりするわけですがーーーはて「あなた」は誰なのでしょう?
さあここからが今回の論点。
あなたがあなたの友人Aさんその人でないことはわかっておられますよね? では「あなた」がエゴではないこと、わかっておられますか?
エゴは自我は、例えば「〇〇なわたし」というような肩書きを常に必要としていて、 そうした鎧をこれでもか!と纏いがちです。
つまりは、自分を守りたいからーーー要するに防衛本能そのものであるといっていい。
また、比較対象たる他者を常に要しているのは分離を前提として存在しうるのでその用意周到ぶりには正直、頭が下がりますが、生き残りをかけたサバイバル・ゲームの中から抜け出せずーーーやはりか死から死の恐怖から逃れることは出来ません。
そう「死」が「死ぬ」のが怖い。
いやもっというなら、怖いものだらけです。
片や「あなた」は、わたしはすべてですべてはわたしであることを知っている存在なのでその姿形に囚われることもありませんし、その表出している違いこそが「わたし」を炙り出す貴重な問いかけであることも知っている分そこには感謝しかありませんーーーつまりは結果としてますますも「わたし」らしさに磨きがかかり、笑顔になれることを知っているので生き残る為に戦略を立てる必要もなく、そのまま・ありのままの「わたし」でいられます。
そして肉体の死をつまり「死」を超えている。
ちなみに「わたし」は余計な荷物を背負うことがない分いつも身軽でいられますからある種の瞬発力をもってその都度、臨機応変に応答することが出来るように思います。
まあそれはともかく。
この極論については前回もお伝えした、あなたという「わたし」は過去・現在・未来を貫いてすべてと繋がっている存在であるということが前提ですので誤解のないように念を押した上でそれは正に、時間を超えて存在しているということーーーつまりはこの世で大方の人間に認識されているだろう時間軸では、決して推し量ることの出来ない、到底、相容れない事実の上に存在しているということなのです。
そう、実相の世界でこそ「わたし」は「死」を超えているーーー要は生死の一方たる死が打ち消されたなら「生」という「生まれた」という現象さえもが、もはや意味をなさなくなるのでその真ん中のただ「存在」こそが存在しているという真のリアリティだけが顕在化することになります。
そうあなたである「わたし」は「存在」です。
さらには、この存在「している」ということを誰しもがおそらく、動詞的な解釈でもって理解できうるなかでーーーそれは動いているものであると受け取れるので、 ひいては常に変化しているものであるということすらもが感じていただけるのではないでしょうか。
実にエネルギー的です。
そう、「わたし」とは目には見えない存在でもあるーーーだからこそ、 鏡に映さなければその個人を特定する為の顔を頭をその目で見ることは出来ません。
そう、顔を直に見ることは出来ないのです。
また「わたし」はその音色から「渡し」と連想することも出来ますが、何を渡しているというのでしょうか?
つまり「わたし」は「渡し」でもあってわたし=Iアイ=愛ーーーはい、それは「愛」です。
そう「わたし」は「愛」そのものであるが故にその愛こそを渡している、送っている、与えているということになります。
そうしてすべてが地平の上に存在している。
富める者も貧しき者も大きい者も小さい者も、また人間だけに留まらず、 生きとし生けるもののすべてが自らのことを「わたし」とふとでも認知するならーーーそのすべてが「愛」と呼ぶにふさわしいのだということを、誰も否定することは出来ません。
そう、誰であれ、何であれ。
だからこそこの日本には大和やまとにはーーー八百万やおろずの神が存在しました。
そしてあなたもきっとご存知でしょう?人間が神と呼んでいる存在が「愛」そのものであるということを。
ですからここで、 すべては「愛」と知ったならコロナウィルスもまたそれに違いなく愛でしかないのだということを、なんとなくでもお認めいただけるのではないでしょうか?
ではついでながら参考までに。
都内在住の共働きのご夫婦と小学生のお子さんが一人というご家族がおられるとしましょう。
今回のコロナ渦とやらで、 これまではなかなか子どもと過ごす時間もままならなかったご夫婦にとって、 貴重にも子どもといや家族で過ごす時間が増えたとします。
実はお父さんもお母さんも、ずっと氣にかけておられたんですーーーまだ彼は小学生でなんせ一人っ子ですから寂しい思いをさせてるんじゃなかろうか?と。
そして彼も、実際カギっ子でもありましたからやはりか寂しい思いをしてましたーーーそんなご家族にとってどうなのでしょう?
それは決して所謂ネガティブな一面だけに留まらずポジティブな一面をももたらしたのです。
家計的にはやはりか収入が減ったというようなダメージがあったのだとしても、より基本的で精神的な部分においてはつまり「吉」と出たのですから、このご家族にとってコロナ渦とやらが大いなる機会となったことはいうまでもありません。
やはりかそういう意味においても、コロナウィルスはたしかに「愛」なのだといえるのです。
今回の茶番に利用されたこのコロナウィルスはやはり、この茶番に没入することを選んでしまったあなたにどれだけ罵られようとも敵視されようとも、今「あなた」にとってなにより望ましい状況へときっと導き、その先の最善の道に氣づかせんが為にあらわれました。
その具体的なことはもちろん「あなた」にしかわからないことですがーーーとにかくあなたが真に「あなた」らしく生きる道に、誘導せんとしてくれていることは必至だと思います。
そう存在は生命は物いわない。
そう、神とやらも決してことばを発しません。
例えばあなたも、こんな話しを一度は耳にしたことがあるはずです。
永年連れ添ったご夫婦のあいだでは、わざわざことばを介さなくても相手がなにを求めているのか? がなんとなく伝わるしなんとなく解るといったことが多分にあることを。
ともあれそれが新型かどうかはさて置きコロナウィルスが存在するとしたなら、それは生命であるということになります。
この世において生命とは、つまり生きているのですから、つまりそれは生かされているということでもあってーーーですからコロナウィルスにもなにかしら役割があるはずなのです。
また生きることにおいて大事なのは、どれだけのものを持っているのか?よりもどう生きるのか?
だからこそコロナ渦はコロナウィルスは例のご家族に、よりシンプルでかつ最善といえる機会をもたらしました。
そしてコロナウィルスは決して物いわないまま彼らにとっておそらくなにより喜ばしい状況を用意したのです。
そう愛であるが故に自らは何も語ることなく。
ところで人類の誕生にウィルスが関与していることをあなたはご存知ですか?
これまた信じる・信じないはあなたの自由ですがそれでも「事実は小説より奇なり」です。
宇宙空間から今この瞬間も降り注いでいるリボ核酸 RNAーーーそれは今回のコロナウィルスの基本型である鎖型一重らせん細胞ということになりますが、 人類誕生どころの話しではなく、生命の誕生にたしかに寄与しています。
これまた愛にこそ為せる技。
いやそうしたことも含めて「愛」と呼ばないのならば、なんと呼んだらいいのでしょうね?
他におおりなら教えてください。
P.S. いやぜひとも教えていただきたい。