この自由は詩う

今、このときをうたふ。

地平からみる世界 続篇

こんばんは。

 

 

久々の雨も静かな夜です。

 

 

 

いや世間は相も変わらず混沌とーーーなにやらしっちゃかめっちゃかでナンセンスなアクティビティは目白押し、なれど演者さんたちが痛々しいのはもちろんのこと、それに巻き込まれている人たちもまたやはりか不憫ほかならず。

 

 

それが心底楽しいというのならこちらもあえて申しませんがわざわざも労苦を伴ってまで付き合い続けることはないのです。

 

 

 

ここには四季があり冬があり寒いがあります。 

 

 

春や夏や秋を知る為に暖かいや暑いや涼しいを知る為に、だとしたらーーー風邪の一つも引くでしょう?そうした類のものが世間に有ろうが無かろうが先ず今ここにわたしは存在しているという「喜び」においての「感謝」を「愛」を想起せんが為の、これは絶好の機会でしかないでしょうにまだわかりませんか?

 

 

それはどこにいようとも明らかなのですよ。

 

 

 

 

 

さて今回は前回の「地平からみる世界」の続篇となりますのでそのリフレインから始めることにしましょうか。

 

 

 

ところで、彼女の仰る自然とは何なのか?

 

 

これはおそらくも、現代の大方の人たちに共有されているものでその聴こえは決して悪くないーーーただしこの自然などということばはこの日本にはありませんでした。

 

 

この、自然ということばとその理解が浸透するキッカケとなったのがキリスト教の伝来、これまた諸説の内の一つではありますがその影響は大きかったといえなくはないでしょう。

 

 

 

そうキリスト教聖典たる聖書はその聖句の先に見え隠れするものを感じ取らない限り、その大部分がいや九分九厘が、非常に唯物的でマトリックス的な物語で占められている叙事小説だといっても過言ではなくーーーそれのみならずとも、生きとし生けるものたちと人間とを分け隔てることに一役買った張本人的な書物であることは否めません。

 

 

いやもちろん読み手のレベルという問題が大きかったことはいうまでもありませんがその宗教団体が、信徒を増やしたいと望む限りにおいてその読み手を選ぶといったことにまで意識的になれなかったことがその要因を創り出すさらに要因となったということ。

 

 

 

そうしてちなみに彼女は、敬虔なキリスト教系宗教団体の信徒さんでもあります。

 

 

いやそれはさて置いたとしても彼女は明らかに人間と自然とをその無意識下でいや既にも表層意識において人間と生きとし生けるものたちを分け隔てていることは余りに明白でーーーそれはさらに彼女が神と呼んでいる存在と自らをも分け隔て切り離してしまっているということも出来るでしょう。

 

 

 

ともあれなぜ人間は自らを自然から引き離そうとするのか? そんな疑問もまた今に至らんが為の、たしかな軌跡いや奇跡となるだろうことはいうまでもありません。

 

 

そのすべては、愛の中にあるからこそ起こり得また愛の中にあるからこそ許されているーーー神とやらが常に沈黙しやはりか手を貸さないでいるのは愛であるが故にであってそれはつまり人間のそれぞれにそのすべてを任せているからではないでしょうか?

 

 

 

さて、 ここで少し補足しておきますがわたしは如何なる信仰とも一切関係がありませんーーーまた神と呼ばれている存在をいやことばを固有名詞的に捉えてはおらずそれはどちらかというと動詞的な、つまりはエネルギーのようなものとして知覚しているということをお見知り置きいただけれたら幸いに思います。

 

 

ですからこのブログ内でそのキーワードが顕現してもその意図には往々にしてそうした違いがあるか知れませんので誤解なさらないように。

 

 

 

 

 

では片や「わたし」はというと人間も生きとし生けるものたちもいうならその呼び名を違えている全存在がただただ生命でありエネルギーのような目に見えないものであり「わたし」そのものであることを知っています。

 

 

ですからその同じ土俵に立たなければ、彼女とわたしがあの一件の以前のように関わることは難しいかも知れません。

 

 

そうしてこの、同じ土俵に立つことこそが仏陀ガウタマ・シッダールタによって提唱されたかの「縁起の法」の根幹に関わるといえるかと思います。

 

 

 

その対極にある者同士がもしくは同極にある者同士が出会い各々が「わたし」を明らかにしていくーーーそれは曖昧な対峙ではなくある意味誰にとってもわかりやすい対峙として誰しもの眼前で明らかになっている、つまりオーブンになっているとしかいいようはなく。

 

 

その最たる型が夫婦や家族だということです。

 

 

いちばん身近にいるわたしとは違うあなたとはーーー「わたし」と「あなた」はこの世で究極の愛の為にこそその基礎として欠かせない型であることは明白でしょう。

 

 

 

ですから巷でノンデュアリティというアイデアが盛んになったことが今は久しいですがーーー実はそのまた先へと奥へと一歩歩み出す必要があると感じています。

 

 

つまり学びは永遠に終わらない。

 

 

これもまたいずれかに記事となって顕在化するときがあるでしょうけどそれはまた追々。

 

 

 

ともあれ「わたし」である全存在は生命でありまた目に見えないものであるということはいうまでもなくーーーにも関わらず人間は知恵の実を口にしたからなのか? 各々をそれぞれに相応しいかと思われる肩書きで切り離し分け隔てていきました。

 

 

それはさらに種別すらも超えてある意味の鎧をまとうかのように、まとわせるかのようにその厚みをさらにさらに増していったのです。

 

 

いやはや苦しいでしょう?

 

 

 

わたしも十二分に体験しましたいや今でも時折ありますがーーーそれはとても苦しくて重くて歩きにくくて走りにくくってましてや空は飛べません。

 

 

ただしそれを脱いだらすべて脱ぎ捨てたら歩くのも走るのもラクになりますし、空を飛ぶことさえも叶うほどにそれは軽くなるのです。

 

 

 

そして見るものすべて「わたし」でしかない。

 

 

あの野鳥たちもカメも彼女もまた「わたし」でしかなくそれらは混然一体となって常に変化し続けている命たるエネルギーでかつ愛そのものーーーそれは目に映ってはいるけれど映ってはいなくて有るけれど無いもの。

 

 

 

しかしながらたしかに存在しています。

 

 

さてそれは?

 

 

 

わたしにとって野鳥たちは「わたし」なのですーーーですから今冬もやはりか生きる為にそれなりにお腹を満たす必要があります。

 

 

とくに今冬は雪が多くて大地全体が雪で真っ白に覆われ、また昆虫たちを見かけることもままなら無いなかでやはり撒き餌しかないのです。

 

 

つまり「これしかない」「これしか選びようがない」それこそが、わたしたちの数だけ違えていても全存在それぞれ本来の愛に基づいている良心であるといえます。

 

 

そして今わたしに出来るのは撒き餌です。

 

 

いやコレ「しなければならない」わけではないのでその点は誤解のないように。

 

 

 

実はそれよりもわたしが為しているといえないのですーーーそう、掌から勝手にお米や雑穀がこの大地にこぼれ落ちていく。

 

 

それをただ目撃しているだけなので。

 

 

 

 

 

さてここに述べられているのはあくまで「月を指す指」でしかありません。

 

 

実際の月を太陽を知るにはあなたの目で肉眼でそれを見るしかないのですーーーつまりあなたがそれを体験し経験することでこそ月を太陽を知ることが出来るのだということに他ならないということです。

 

 

 

そうして地平からみるこの世界のなかにことばはさほども必要ありません。

 

 

あのスズメやハトたちはそうして大地にこぼれ落ちていたお米や雑穀を残さず平らげるーーーそれこそがその応答こそがつまり彼らのことばなのですからそれだけで十分なのです。

 

 

もはや完結しているともいえます。

 

 

 

そうしてまた辺り一面なにごともなかったかのように静寂が広がってーーーここには問題などありようもなく、そのすべてがそれをただ包み込みただ包み込まれているただそれだけのことでしかありません。

 

 

そしてここには微笑みがありました。

 

 

 

この流れのどこに、 ことばが必要ですか?この流れのどこに、問題があるのでしょうか?

 

 

ただそのように在るだけ。

 

 

諸行無常のことばの如くーーーただ必要なことが起きてそれは何も起こらなかったかのように消えました。

 

 

 

また彼女は決してわたしの地点からこの世界を見ることはどうやっても出来ませんーーーそれはわたしとあなたとが、常に向かい合う対極にあるからといえます。

 

 

いや隣り合っていても同じことーーーその地点が微妙に違うことをあなたもご存知でしょう?

 

 

 

だとしたら、その流れのどこに彼女が口を挟みそれを堰き止める必要があるというのでしょうか?その答えは出ていました。

 

 

しかしながらおかげさまでわたしはハッキリと確信に変わりましたーーーいや彼女はたしかにこの氣づきを目覚めをさらに促したのです。

 

 

ですから彼女に感謝しています。

 

 

 

地平からみる世界は世間にみる混沌とたしかに一線を画していてーーーつまるところここには始まりも終わりもありません。

 

 

 

P.S. それはとめどもない愛であるとしか。