こんばんは。
先日テレビでとある小学校の多文化を学ぶ授業が放映されていました。
ちなみにその授業において取り上げられていたのはポルトガルでオンラインで結ばれた画面にはその在住者であろう女性が映っておりクラスの児童のみなさんがいろいろ質問をするという趣旨のものであったように思います。
そして偶然なのかそのクラスにはポルトガルにルーツをもつ女子児童が一人いて彼女もまた手を挙げて席を立ちそれは流暢に楽しげにポルトガル語で質問をしたのです。
普段の授業ではほとんど挙手することはないという彼女も懐かしさからか母国語で質問するに至ったのでしょう。
がその先にわたしは違和感を覚えました。
というのもそれを見ていたクラスメイトの児童たちはその瞬間に呆氣にとられたような表情でそれを眺めておりその後インタビュアーに感想を訊ねられた誰も彼もが不思議にも口を揃えて凄い!と答えているーーーいややはりかそれはテレビですから制限時間内の作品にする為にか編集されているだろうことは百も承知なのですが。
またそんな反応を知ってか知らずか彼女も実に誇らしげな表情を浮かべて感想を述べていたというわけで。
いやいや善し悪しの話しではありません。
単純にその彼女が母国語を話したということのなにが凄いのでしょう?
いや子どもたちは素直ですからそのままを受け止めるのは吝かではありませんが、蛙の子は蛙とはよくいったものでーーー周囲の大人たちが如何に日本人としての誇りや自信を失っていてかつ如何に外側にばかり意識を向けているのかという現実をまざまざと突きつけられたような氣がしてやはり悲しくなりました。
さらにもそれはまるで外国語を話すこと話せることがよいことだといわんばかりで、 かつどこまでも他者との比較に価値を見出さんとするかのような番組となっていて。
しかしながらこれを視ても彼らやその親御さんたちはきっと「誰それが映った」または「映らなかった」という話題に終始するだろうことは目に見えている。
それはやはりかとても哀しいこと。
そう亡霊とはそうして出来上がるのですから。
さてここからが本題です。
先日の至道無難禅師の道歌「生きながら死人と成りて成り果てて思うがままにする術ぞよき」十分に咀嚼していただけたでしょうか?
ともあれこの道歌にある「死人しびと」と上述の「亡霊」は全くもって違うものーーーつまり似て非なるものであることはおわかりになるかと思いますが。
その点あなたはいかがでしょう?
そういえば最近ニュースサイトのタイトル一覧に「ワクチン接種で死亡なら国から約四四二〇万円が支払われる」というのを見かけました。
コレその数字にいや金額に囚われておられる方がいらっしゃるかも知れませんがーーー論点になるべきなのは金額でなく「国から」を「国民から」 という風に読み換えられるかどうか?であることにお氣づきですか?
つまりは国のお金というのが国民の血税あってのものになりますからーーー国から支払われるということは国民の血税から支払われるということ。
それは要するに「ワクチン接種で死亡なら日本国民による血税からその見ず知らずの死亡者の家族に約四四二〇万円の御香典が支払われる」というニュースでしかありませんのでその点は間違えないでいたいもの。
またそれを追いかけるように増税の話題もちらほらーーーコレこれまでにも繰り返されてきたのと同様の手法であえてリークする者がいるということ。
彼らには情けとやらがないのでしょう。
まあ結局のところこれらについても氷山の一角ーーー見極められるかどうか? を試されているかのようでもあるわけで。
またもちろんそれにおいても「死」というキーワードを都合よく遣いその論点をずらし人間の感情に訴えるようなーーーこれもまたどこまでも偽善的なやり方に他なりません。
そうこの日本ではこうしたことがこれまでいや今現在も当然のように横行し続けています。
それは日本人という民族の最大の長所たる従順さなどが最大の短所でもあるからでーーーさらに「右に倣え」的な点が大いにこれを助長することとなりました。
日本では現在のコロナ渦とやらでか否それ以前のいつの時代からか「死」を殊にタブー視する傾向が見受けられてきましたがーーーその傾向に拍車をかけたのはやはりか西洋医学への傾倒および薬剤への盲信また諸保険への期待感などそのどれをとってみてもやはりかその責を他者に委ねてこそのものの台頭によってといっても過言ではなく。
つまり現代の大抵の日本人がその生の責を自らから放棄したからこそもたらされたものであるということも出来るのです。
ちなみにわたし自身は保険に加入してはおらずこの先も加入することはないでしょう。
いや断言します。
いやだからといってそれをお勧めするとかこうでなければならないとかそういう話しではありません。
ただただ自らに軸があるかどうか?なのです。
折角ですから一つ思い出したことも併せお話しするとわたしは西日本に居住しており、東日本大震災の起きた年に甲状腺機能亢進症いわゆるバセドウ病を発症しました。
当時やはりか症状がかなりキツくて通院を余儀なくされていたのですがーーーそうした最中に施された放射線治療とそれに類するといってもよい処方薬に非常に違和感をもちまして自らの判断で始め処方薬を止めてその後、担当医にもその正直な氣持ちを話して通院すらも止めたのです。
そうしてしばらくは横になっていることの方が多かったと記憶していますが実は少しでも調子がよいときは決まって庭に出て土をいじったり木々や草花や昆虫にも触れていましたらーーーなんとみるみるうちに息切れもしなくなり病はどこへやら?といったほどに治ってしまったというわけでして。
いや内なる声に耳を傾けただけなのです。
その違和感に従って軌道修正し本来のやり方というのか? シンプルにその病をただ受け入れてキツいときには休んでラクなときには動ける分だけ動いてーーーそうとかく余計なことはなにも為さないでただただその流れに委ねたというだけのこと。
以来、医療機関にお世話になることも抗生物質の類いをまたサプリメントを口にすることなどの一切はなくーーーそうそう人間ドックとやらはおろか自治体による無料の健康診断等も一度も受けたことはありません。
またその以前は基本一日おきだった入浴なども現在は余程のことがないかぎりは一週間に一回だけ。
ですからお化粧ももちろん止めました。
そう基礎化粧品は実名をあげてアベンズW一本だけで洗顔等は石鹸のみーーーとにかくお米が大好きでよく食べますがダイエット経験もナシけれどもう長らく愛煙家。
ここだけの話し十代の頃からです。
また現在はこれといった肩書きもなく家事などこなしながら淡々と暮らしておりましてーーーとまあ同居する母からは十分に変人扱いされておりますが当のわたしは全く氣にしていませんのでご心配なく。
そうしておかげさまでぼちぼちですわ。
ともあれ、死人とはいうなら今ここに存在しているということそれのみにおいて喜びを感じることが出来またひいては感謝が生まれてくるといった風にもありーーー未来においての不安や心配とは無縁であるといえばコレわかりやすいでしょうか。
もちろん思考する必要があるトキにはトコロにおいてはそれは吝かではありませんがそれらについてもあえていうならあくまでまその瞬間に眼前で起きていることについてを思考するのであって未来のいついつの為にああでもこうでもないと悶々とすることはありません。
この世の生命はいずれにせよ死にゆく存在だと知っているからこそーーーそれを至極当たり前として承知しているからこそ今をまた置かれた場所でもあるここでこそこの全身全霊をもって生きるし生きることが出来る。
それだけのことです。
またそこではこの名も性別も年齢もなにかしらの肩書きもそうしたすべてのレッテルになんの意味もなくーーーさらには善人であろうと悪人であろうとそれを決めるのは勝手に解釈しようとするのは当のわたしではなくその折々に対峙しているあなたでしかありませんので「お好きにどうぞ」としかなりようもないと思いませんか?
そうそれ以上でも以下でもないもの。
またそれすらも消えます。
そうなると片や亡霊についてはそのベースが私でありそのどこまでも固定されている名や肉体や性別や年齢や肩書きなどすべてのレッテルが必要不可欠だろう者の又の名というのか? コレ以前にも述べた如何にも固体的な物の方に比重が大きく傾いているであろうことにいやでもお氣づきになるのではないでしょうか?
そう物および物体にはなにかしらが内包されている内面とその見映えである外面がありーーー私とはつまり後者の外面のことで「わたし」とは前者の内面のことだと考えていただければおわかりになると思います。
この世で何某かの物体を創る際に先ず重要なのは、どのようなモノをどのような意図でもって創るのか?
つまりその込められた思いや機能や性能にこそ意図が意味があるわけですから外面はやはりか二の次でしかないといってよく肝心なのは内面だということです。
そう外面はいくらでも取り繕うことが出来また変化し消えていくーーー結局はそうして跡形もなく消えて残らないもののこと。
ここまで述べれば今なにをいわんとしているのか? あなたもきっとおわかりでしょうからみなまでいいません。
この機会に先ずこの「死人しびと」と「亡霊」の違いをよくよく咀嚼いただいて今ここから今を生きるヒントにしてください。
そうして改めて「生きながら死人と成りて成り果てて思うがままにする術ぞよき」を咀嚼していただけたら幸いです。
またコレ老子の「無私」でもありましょう。
P.S. さらに自灯明にも通じます。