この自由は詩う

今、このときをうたふ。

一人立ちて

こんにちは。

 

 

その庭は楽園に他なりません。

 

 

先日の啓蟄の日を待たずして昆虫たちも枯葉のあいだからその元氣な姿を見せてくれました。

 

 

 

またエゴノキハナミズキまたモミジとムクゲコデマリなどさまざまな大きさの木々がそのところどころ植わっていてすっかりと根づいて静かに佇んでいて。

 

 

その大きな木々についてはもちろん現在その葉のすべて落ちた状態にありますがそれでもさまざまな野鳥代わる代わるもそのを休めにか訪れて囀りを響かせています。

 

 

そうした木々の姿また佇まいこそ子をもつ親のまた大人の本来の有り様ではないかと思う今日この頃。

 

 

 

あなたはどのように思われますか?

 

 

 

 

 

さてここからが本題です。

 

 

大人とはどのような人間のことをいうのか?

 

 

今回のコロナ渦とやらを眺めながらその傍らでこの約一年数ヶ月のあいだにわたしには正直なところわからなくなっていました。

 

 

その世間とやらは正にカオスで混沌としていてもちろんそれは身近な母においても同様にその言動とその有り様にはどうしても違和感が拭えませんでした。

 

 

やはりかそれらはあるがままでもありのままでもそのままでもなくーーーそれは落ち着きなく他者の声に従う俗にいう家畜とやらでショックだったとしかいいようもなく。

 

 

いつぞやかこれは別の意味で述べましたがその身体大きさだけで年齢を特定しようなどナンセンスでしかないのはご想像のとおりでーーーしかしながら未だ続いているこの茶番において大人と呼ばれる大抵の人間たちはただ単にその身体の大きさに由来しているのかと誤解し兼ねないほどとなっていることにあなたはお氣づきにはなりませんか?

 

 

いや自由なのですよそれぞれの自由ーーーただそれは本当に自由を謳歌しているといえるのか考えたらわかるだろうはずで。

 

 

そう自由とは得てして謳歌するもの。

 

 

ちなみにこの謳歌とは自らの恵まれた境遇などを他者にはばかられることなく言動などで表すことーーーですから感染対策とやらに励まれている方々についてはそんな意味においても甚だ疑問でしかないわけです。

 

 

 

この世間にはわたしのみならずその混沌とした正にカオスを眺めている方々が多分におられてそうした方々もそれぞれの表現でか伝えている昨今においてーーーもしあなたがご自分を大人だと仰るのならもしあなたが子をもつ親であるのならどんな対策よりなにより真っ先に出来ることは一つだけ。

 

 

先ずあなたなりでよいのであるままにありのままそのままでいることしかありません。

 

 

そうしてあなたの眼前にもあるだろうその目に映ることもあるだろう木々のように特別なことや余計なことのなに一つせずにただ落ち着いて子どもたちや若者たちのやりたいように好きにさせてあげるだけなのです。

 

 

つまりはただ見守ってあげること。

 

 

 

それはそうコロナ渦など起きていないかのようにーーーいや事実コロナ渦にふり回されているはこの地球上のあくまで少数派の人間だけで事実なにも起きてはいませんから心配するだけムダであるといえます。

 

 

いやそうでなくてもあなたが大人だと仰るなら長く生きて来たなら二〇〇九年の新型インフルの折のご自身の対応に照らしてみるーーーそうあの折あなたはマスクを除菌殺菌をソーシャルディスタンスを自粛をなさいましたか?

 

 

さらには商店が営業時間の短縮を要請されたり協力を拒んで罰せられたりはてまた生活困窮者や自殺者が増えたというニュースをその折耳にしたでしょうか?

 

 

わたしたち人間にはそうして過去の記憶に照らしてみることはとても容易いでしょうにあなたがそれすら為さらなかったのだとしたらそれは不憫だとしかいえませんが。

 

 

結局その感染対策とやら一切がわたしたち悉く必要ないという他ないのです。

 

 

 

そうしてそれを隣にいる誰かしら愛する人たちすがら出会う人すれ違う人たちにマスクをしなくても問題ないと「大丈夫」だとその出で立ちという声なき声でかそうした単純な表現と表明で知らせ伝える。

 

 

そうことばなど必要ありませんーーーその一人一人の表明が大きなうねりとなり得るのです。

 

 

またそうしたことこそ大人と呼ぶにふさわしい人間になら出来ることだともいえる

 

 

そうそれは一人でも出来ることですからその為に徒党を組む必要などなく

 

 

それを山野に佇む木々は庭木はたしかに教えてくれていてーーーそう大木であれば尚更わたしたち人間に教えてくれてもいるでしょう。

 

 

それらに氣づいたらよいだけです。

 

 

 

 

 

さてこれまでにも度々述べてきましたがこの世のすべてはオープンでそれらはいつにあっても開かれていて愛は老若男女の誰についても取りこぼしはしません。

 

 

それが愛。

 

 

またウィルスとやらがあるのならそれについても同様で誰かしらだけに感染するというようなことは万に一つもなくーーーつまりはなんびとにおいてもひいては全生命において取りこぼすことなどないわけです

 

 

つまりはやはり愛でしかない。

 

 

ですからこれまた以前も述べましたがウィルスは結局のところ人間の進化の為に存在しているいうこと。

 

 

それにつき善だ悪だと切り分け隔てているのはやはりか人間なのですからそうした解釈の方にこそ問題があるということが出来るのです。

 

 

 

また百歩譲ってあなたが患者としてそれを経験したというのなら話しは変わるか知れませんそうでないのならあなたにそのなにを知り得ることが出来ますか?

 

 

こうしたことは経験した人間にしかわからないことでーーーその個体差をもってして同じ経験など出来るはずもありません。

 

 

それをきっとその長きに渡る人生の折々に経験済みでしょうからあなたはすでにご存知のはずなのです。

 

 

つまりテレビでか患者の証言映像とやらを見たとしてもそれがあなたでないなら結局あなたにそれは起きてないーーー要はあなたにとっての現実ではないということ。

 

 

ですからあなたが変わらなければそのコロナ渦とやらは一向に終わりを見せない可能性があるといえますが本当にそれでよいのですか?

 

 

 

 

 

ともあれ木々はその置かれた場所でなにに抗うことなくただ受け止めてその上それぞれの笑みを浮かべているーーーそれらは決して右往左往することはありません。

 

 

それはやはり地中深くに根を張っているからでマスクなどの買い溜めに走るなど真逆のまさかしないでしょう。

 

 

いや必要ないと知っているからです。

 

 

 

それが大人でーーーそれぞれのありのままそのままを善しと出来るのは先ず「わたし」が自らがそして私もそうであるから。

 

 

そう大人とは子どもたちよりも若者たちよりもこの世界を世間を長らく生きてきました。

 

 

また思い起こせば好き勝手にやって来ただろうはずでやらせてもらって来たはずでーーーもちろん程度の差はあるでしょうがすべてはその為の経験であって体験であったことはいうまでもないでしょう。

 

 

 

これは斯くいうわたしについてもこうして記事に述べながら感染対策とやらの悉くなに一つもしないままでやはりかこのカオスを見守るしかないということでもあります。

 

 

今ここでただただ「大丈夫だよ」と。

 

 

ちなみに感染対策をしたら誰かを守れるなどというのはやはりか詭弁でーーー自らの寿命さえ知り得ない人間に誰かの寿命をどう操作できると仰るのでしょうか?

 

 

これまたただ氣づいたらよいだけのことです。

 

 

 

そうここはいつにあれ楽園で。

 

 

生きとし生けるものたちがそのカタチにあってそれぞれの自由を謳歌しながらかつ全身全霊でそのカタチに囚われることなくただ今を淡々と生きています

 

 

そうわざわざも全体主義など目指さなくとも今すでに命とは存在とは一つでしかありません。

 

 

 

この先なんびとも逃れることの出来ない瞬間迎えるときが来ることでしょう。

 

 

ですから肚をくくること。

 

 

大木のように地中深くに根を拡げそのすべてをただただ受け止めるーーーそれだけがそれこそがあなたをお子さんを真の意味で守る術となりましょう

 

 

 

どうぞその内奥に潜っていってください。

 

 

 

P.S. 春はもうすぐです。