こんにちは。
そちらではもう桜は咲いたでしょうか?
現世うつしよが世間がそうして騒がしくあっても季節は変わりゆくもの。
こちら流石に桜はまだですが長旅の疲れもなんのそのツバメは大空を翔けさらに庭先の木瓜の新芽も少しずつか開きまた続々の花々の開花を心待ちするばかりとなっています。
とはいえ風の冷たい日もあってジャケットは今まだ手放せそうにありません。
いやジャケットといっても本革のライダースがその風を通しにくいという点でもちょうどよく重宝している今日この頃。
まま本日はいつもとは明らかにその趣きを変えましてワタクシゴトにつき徒然なるままにつらつらと述べてみることにしましょう。
さて以前も述べましたがお化粧をしなくなった現在においてもファッションやお洒落についての興味は意外にも尽きないもの。
ただ折しも季節を先取りしたお洒落を提案するのが生業だったであろうMデパートではなぜかそれに逆らってお客様のお顔に重ね着することを強要しているという話しも聴こえてきて正直なところ唖然とする他ありませんでした。
そう重ね着は自信の無いことの表れと理解するわたしにはつまり閉口するような状態であるとしかいいようもなくーーーただどこかでそれが証明されたと納得してしまいました。
ともあれこのクローゼットには例えば COMME des GARCONS+Y'S+MAISON MARGIELA+HYKE+ANN DEMEULEMEESTER+HELMUT LANG そして今や安定のユニクロなどがズラリ並んでおりその九割以上は実はブラックのオンパレード状態で。
そうわたしの定番カラーは正にブラックであるといえそうシューズ以外は上から下まで黒一色の日常が当たり前といってもよいでしょう。
はいシューズだけは基本ホワイトで敢えて外しそうもう随分と前からスニーカーが定番化していてヒールなどほぼ履きません。
また上記に並ぶブランド名から奇抜なスタイルを想像する方もおられるか知れませんが意外とそういうわけでもなくーーーどちらかというと質を重視しベーシックなものでかつ装飾の一切を削ぎ落としたような無機質な感じが好みでもあってその流儀は引き算。
ですから重ね着はあまり好みではなく。
それが合理的だというつもりは毛頭ありませんがーーーやはりかベーシックであることがいちばんしっくり来るというのがその理由にあってまたこれ理由になるかわかりませんがその闇は相当に深いのやも知れません。
いやここ笑うところでこれぞ世にいうブラックジョークというのです。
しかしながらあなたはどうでしょう。
このブラックにも黒にも妙に温かさを覚えるのはわたしだけなのでしょうか?
ちなみに着回し出来そうなモノについては同じものを二枚ないしそれ以上購入することも往々にしてあってーーー他色はホワイトとグレーとベージュの三色にほぼ履かないデニムといった感じなので地味といえば地味か知れません。
ただとにかくその好みのスタイルは昔からハッキリしていておそらく中学生の頃からほとんど変わらないままで現在に至ってももちろんその方向性は健在です。
いや不思議なほどに一貫して。
そうして買い物をするときも先ず欲しいモノをハッキリとさせ不要なモノには目もくれないで自分の中でコレと思うまでは結論を急がない。
またこれまた意外に細部についてもこだわりがあるのでそれなりに時間がかかることもあるのですが本当に欲しいモノであるときは寧ろ自ずとこちらへとやって来ますし基本的に手にしたモノすべてに愛着もあってかつそうした有名なデザイナーのものであっても氣になるところは自身で手を加え調整してーーーいわば一点モノと呼ぶにふさわしいものばかりです。
そうなんでもやってみたらやってみたで出来てしまう器用貧乏というやつで。
それなりにいろいろとチャレンジして来ましたこれまでにーーーそう美大でしたので創作系が主たる範疇ですがそれに止まらずいろいろと。
まあその辺りのことはご想像におまかせしますけどどこかしらで常に自信があったとはいえるかも知れません。
ともあれこの世は色彩にあふれていて街を闊歩する人たちもそれは鮮やかな出で立ちにある中で流行に左右されないでわたしがわたしらしくいられたのはそのようにあったからでさらにはいっときこのように思っていました。
わたしは黒子くろこだと。
いやコレは決して卑下しているのではなくそのスタンスこそがその立ち位置こそがわたしには心地よかったからなのでしょう。
そう例えば自分でない誰かしらが笑ってくれるのが嬉しかったりするのと同様に表立って自分にスポットライトが当たるよりもそのときどきの誰かしらがそのようにあることの方がわたしにとっては嬉しかったということです。
またいうなら過去のわたしはどちらかというと主役体質というより脇役体質であったといえるでしょうか。
それでも学生の頃に学級委員や生徒会書記など経験しましたがそれらもいうなら下で支える係ともいえなくはありません。
いや現在もさほど変わっていませんが。
いやそれはわたしの中で決して黒歴史とか呼ばれるようなものでもなんでもなくただそのようにあっただけーーーなんせいつにあれ道の途中にあるわけですからそれでよかったとしかいいようはありません。
いやいろいろありましたよーーーわざわざここには述べませんが痛い経験やらもしましたけど過ぎたるは及ばざるが如しです。
まあいつか吐露するやも知れませんがやはりか吐露しないやも知れません。
とはいえ「北風と太陽」の童話にもあるように春の陽氣陽光の温かさにその上着を脱いでいくならいざ知らずーーーあまりに季節感のない世の流行に少々呆れ氣味でもあります。
またその流儀が引き算のわたしにはやはり理解できないことばかりで結局は流行に乗る人たちも自信が無いからなのだろうといやでも妙にか納得してしまいました。
そうわたしが前述で如何にも脇役で黒子の立ち位置が心地よいといったのはーーー結局わたしは自信があったからなのでしょう。
そう外面が表層がどうあろうと「わたし」は私を認めていて愛していてまたそれは逆も然りで私も「わたし」を愛しているのだということに他ならないということ。
また変化し続ける世界にただ流されるのでなく常にも「わたし」はそのままありのままであることをどこかでもはや知っているからこそ仮面は必要などなく。
そうしてさらにも黒はブラックはすべての色を含んでもいるからいやこの光のすべて吸収してしまう透明だからなのでしょう。
きっと。
また面白いことにその黒衣の出で立ちとは逆に自室はホワイトがベースカラーでーーー例えばその壁は漆喰の白で覆われ床は石板の薄い灰色さらにその調度品の一切を黒で統一していたりとまあ期待を裏切らない。
やはり実に単純でもあります。
いやどちらでもよいことですが兎に角そういう人間でーーーそうどこにでもいるだろう人間であるということです。
ただしその白もまたこの光のすべてを反射してしまうという意味では実は透明であることに他ならないということになるでしょう。
さて遡って以前も述べたバセドウ病をキッカケに私は肩書きを捨てましたーーーそう不思議と不安などもなくサッパリとしたものでした。
さらに現在四十代で家事手伝いではありますが世間にいわせると何者でもなく。
そう太陽星座が獅子座というだけでやれ派手だプライドが高いだ云々とそんな形容詞がついて回りそうなイメージもありがちかも知れませんが実はそうでもないということです。
それは月星座や金星またはASC アセンダントと呼ばれるものなどによってもその外面的な要素などは影響を受けるはずなので獅子座であって獅子座でないといえる。
またこうした私においても所謂12星座のさらにさまざまな天体の要素が相まって私をカタチ創っているのを知っていただけるなら東洋医学のかの「人体は宇宙」ということばについても認知に繋がるかも知れません。
そうその独自性や多様性の素は重力により集約されていてーーー例えばわかりやすいところでいうとわたしは女性でありながら女性性や母性だけではなく男性性や父性もがあるわけで。
これはご存知ですね?
また子どもがいなくてもこれは前世の記憶からか産みの苦しみや喜びも想像できたりまたHSPの要素も相まってかその母性も父性も強いだけにそれがどなたのお子さんであってもわたしの子どもでもあるとどこかで常にかそう思えてもいてーーーちなみに母と私についてもいうならそれは差し詰め逆転現象でもある。
そうどこか放っておけない。
さらにはさまざまな存在の思いを背負っているからこそわたしはわたし一人の生を生きているのではなくそのさまざまな面をもっているからこそ生かされてもいるともいえるのですが。
きっとそうなのだろうなあとどこかでは知っていても未だ未だ。
いや本当のところはもちろんわかりませんからわからないこと知らないことはそのままにしておけばいずれ向こうからやって来る。
いやそれでなにも問題ない。
けれどおそらくわたしは透明なまま鏡としてか望まれるものをここに映し出すでしょう。
さて相反するかのような白と黒それは光と闇のようでも神と悪魔のようでもあってーーーただどちらもどうあっても必要なものであることに氣づいてもいて知っている。
わたしの外面の定番カラーが黒であってもその内面の定番カラーは白であるかのようにわたしの日常は彩られーーーそれはどこかバランスを取りながらかの老子が説いた「陰陽太極図」のようでもあって。
その身体は黒衣をまといながらも白いシューズを片や白い壁に覆われた部屋のなかには黒衣をまとった私が佇んでいるーーーいや別に狙ったわけでなくずっとそのようにありました。
そうずっと以前から。
わたしにとってその日常が愛おしくあったのはあるのはあまりにも無理もなくムダもなくあるがままのありのままそのままでいられたからであるとしかいい表しようもなくて。
そう他でもないわたしも今さら氣づきました。
正直こうして述べ始めたときには氣づきませんでしたがやはり上手いこと帰結するものでなにを今さらワタクシゴトなんてという考えもこの片隅にありましたが今この瞬間に妙に納得しているというわけで。
やはりかどうあっても問題などない。
そのすべて自作自演ですべてはわたしでわたしはすべてでしかありません。
そう誰かにとってはわたしが悪魔に見えることもあるでしょうし逆に神に見えることもあるか知れませんーーーつまりは神にも悪魔にもなるでしょうけどそのいずれにせよどちらでもよいのだということ。
そうすべてはわたしなのですからそれを知っている「わたし」においてはそれらに然程も違いなどはなく結局のところは人間としてのあなたのご判断にお任せで「ご自由にどうぞ」と「お好きにどうぞ」とそれだけでよく。
コレいうなれば世間の喧騒など世界のカオスや混沌など氣にするだけムダであるともいえ。
ただわたしは変わらないでしょうーーー今後もおそらくはきっと永遠に「わたし」のままただ今ここに存在していることでしょう。
すべては「わたし」なのでなにを恐れることもないけれどときには恐れてもよいしそのどちらでも構わないただそれだけ。
それでもただ方便の世界で「わたし」は神にも悪魔にもなりながらーーーそれが望まれるならそれらはどこまでも望むところでしかなく。
愛とはそうして変幻自在なのです。
そうどこまでも愛おしいわが子である私の為であれば尚のことーーーその為にエデンから追放しかの千尋の谷から突き落としました。
ただしその愛は懐は大きくて広くて深くて無限であるとしかいい表せません。
ですからとにかく大丈夫ですからあなたはその場所であなたらしく生きてそのあなたを慈しみぜひ愛してください。
わたしはそうただ笑顔になれること笑顔でいられることをモノサシにしました。
そうしてそうやっていつなんどきにあろうとも自らを自分を愛することは自ずと他者をすべてをも愛することになりーーーまたそれはいつにあろうともどうあろうともやはりかわたし次第でしかありませんでした。
そう私を生かすのも殺すのもやはりかわたしでそうわたしはこの不自由のなかの自由をあるがままにありのままにそのままにただひたすらに謳歌するだけ。
そう透明なわたしには仮面も鎧も必要はない。
P.S. さあよい一日を。