こんにちは。
前回わたしには常に自信があった云々と述べたのがどこか的を得ませんでした。
そう結局はその次元を超えて唯一無二の存在である「わたし」として今ここにあったからなのだと氣づきました。
つまりあるときからわたしはもはやそのように在ったともいえるでしょう。
そう大抵は自我と呼ばれるあくまで表層の私として世界のサバイバル・ゲームに巻き込まれていてもおかしくはありませんでしたしまた集合無意識にどっぷりと浸かっていてもおかしくはなかったのですがそうはならなかった。
あの体験は正にそのキッカケで。
ということで本日はその辺りから徐々に始めてみることにしましょう。
さてわたしは二十歳の誕生日を迎える前に正に死に直面させられる体験をしました。
それはあくまでも表面のストーリーと呼ばれるものではあるのですがつまりわたしはいわゆる犯罪被害者となったのです。
まあその詳細はともかくもーーーただ実はその瞬間にわたしは全く光のない闇のなかにいて否あって身体はなくですから自ずと五感さえなくただ存在していたということになります。
そうもちろん怖いという感情などがあるわけもなくただただ在ってそうしてどれくらい経ったのかーーー再びこの世界の現実に引き戻されて被害者の私がその場所にいました。
ただそれでも実はその場に加害者である人物はいてその手にはナイフが握られてはいたものの被害の瞬間の記憶はおろか実害についても跡形もなくて正直なにが起こったのかさえもわからないままその人物は間もなくも立ち去りーーーつまり生死の狭間にいたことだけはようやくもわかって。
当時のアパートにどうにか辿り着きほっとしたのか泣き崩れてーーー涙も枯れるほどに嗚咽しながら泣きに泣きました。
そうして約一週間やはり外出はままならなくて友人たちからのコンタクトも一切断ちその瞬間の自らにどうあっても折り合いをつけんとただただ対峙し続けるほかありませんでした。
そうして今はほぼ確信に変わっているといってよいでしょう。
それは原初のーーーそう聖書の創世記とやらに語られているという「光あれ」のことばの以前のそれであったことに他ならないとどこかでは確信しているということ。
そうそれは生まれてもいないし死ぬこともない存在のーーーここでも常にか述べている本質の本当の「わたし」でただただ存在しているモノとして在るそれそのものの懐に抱かれていたということでもあって。
要するにあの瞬間は少なくとも表層の私は自我はいなかったということでもあるでしょう。
またそうしてあの日を境に少しずつ表層の私は自我はその鳴りを潜めていきました。
いや鳴りを潜めていったというのが妥当なのかはわかりませんが統合されていったと表現した方がわかりやすいでしょう。
またおそらくその後十年はわずかながら行きつ戻りつだったような氣がしています。
ただバセドウ病の発症をキッカケにか正に統合されたーーーいや本当のところはどうあってもわからないことなのでこのまま寝かせておこうと思いますが振り返ってみるとやはりか辻褄は合っているような。
それは「2=1」となったーーーただしこれはあくまで内側の内面の話しであって外面の外見のどうこうでないので悪しからず。
またもちろんこの旅は永遠のなかの一瞬で。
さてそれはなぜ起きたのか? その辺りについて述べた方がよいでしょう。
あのときはーーーそう絶体絶命ともいえたあの瞬間わたしは無力であるが故に諦めて明らめてその事態をただ受け入れるしか道はありませんでした。
そう抵抗することを止めどこか意図したように全身の力が抜けていったその瞬間に仏教でいわれるところのサレンダーつまり身心脱落とやらが起きてその同時進行的にかそれは起こったといえるでしょうか。
いや当時はもちろんなにが起きたのかすらわからなかったわけですがーーーそうして自ずから探求は始まり現在に至りました。
それでもあの頃は臨死体験を経験された方々の話しはスグにも見つけることが出来たのですがわたしのそれは明らかにそれらとは違っていてやはりか苦悩はあってーーーまたどこかでは実はすでに死んでいるのかも知れないと思ったりするわたしもいてそれならばと逆に開き直っていたようにも思いますが。
いやコレ強ち間違ってはいなかったわけですが脚はちゃんとありますよ今も。
とはいえ今ふとも浮かんだ方法でもその生死の狭間のイメージを実は誰もが単純にか知り得ることは可能でしてーーーコレ生死せいしと読みますからその真中はつまり「い」で。
そう「い」というときそれには例えば位や胃や意や異や威や委や井や衣や以や為などおそらくは数多の漢字が当てられるでしょうがそれではあまりに多いので古語からも調べてみるとその語源には二つあって先ず一つに「異:不思議なことさらには仏教用語の四相である生住異滅のなかの一つでその状態が変異すること」ともう一つは「網:蜘蛛の糸やその巣のこと」とありました。
そのどちらについてもあの体験をいい当ててもいるようにあるという意ではしっくり来るもので当時はこのように考えてもみませんでしたが意外にもこう考えていたなら答えに辿り着いていたかも知れません。
さらに「い」の発音はつまりは英語の「I」となりますから要するにアイでありつまりわたしまたは愛ということになるでしょう。
そう生死の狭間とはつまり「わたし」であって愛だということになります。
とまあ決してふざけているわけではないのですが老若男女の誰にでも辿り着けるだろう単純でシンプルな答えであるということを前提にするならやはりか間違っているともいえません。
そうしてさらにこのブログで常にも述べている「わたし」の次元のことであるといえるーーーつまり生きているとも死んでいるともいえない次元にありながらもわたしはたしかに存在しているということばそのままにあるということになります。
そう生死の狭間また生死を超えた次元はきっとそういうものでーーーそうこの世で生きながらにして実はすでに死んでいる。
わたしは存在です。
ところで前置きにも述べたように前回わたしにおいて常に自信があった云々と述べた点につきましてーーーそれは自信のあるや無しの次元の話しでなく結局わたしは唯一無二の存在だったということを知ってしまったことに由来してのものだっだと訂正しておきたいと思ったが為の今回の記事でもありました。
それはつまり自らが唯一無二の存在であることを要するにわたしはすべてなのだということを思いがけず知ってしまったーーーそしてそれがその意味が真にどういうことであるのかにスグには氣づかないままに過ごしても来たわたしがいたともいえて。
そうしていうなら私という人間はもはやすでにも「わたし」のなかに溶けたといえばよいのかわかりませんがそのような感じでもあり。
そう「2=1」のようにです。
ですからそのケガの功名から現在わたしのなかに葛藤と呼べるような苦悩はなくさらには嘘がありません。
いや例えば知らないものは知らないからでしかないというだけでして。
また母曰くどこか浮いています。
さらにはコレ逆も然りでその肩書きもそうした鎧のすべてもさらにはその為の仮面もやはりか必要でなくなるのは必至で事実そのようになりました。
つまり何者でもなくなった。
そうしてすべては無常でしかないことを常にも見抜いているので大丈夫であるとしかいいようもありません。
だからこそ尚更に喜びにありながらも悲しみはあって悲しみにありながらも喜びもあるのだとそのようにかいい表すことも出来ます。
要するにわたしにとってコロナ渦とやらは今も起きてはいないので相変わらずこの自由を謳歌しているわけですがーーーその一方でコロナ渦が起きていると信じて止まないみなさんのことをやはりか放ってはおけなくて憐れんでいるということ。
正直どのようなことばでならみなさんに伝わるのか?は目下のところ命題で。
まあだからこそこの未熟さが悲しくもあって。
ちなみにわたしはその加害者のなかにも被害者を観てしまった功名からか現在ではもはやそのなにも起きなかったという地点に立てているのですがーーーこれまた赦すや赦さないの二元も超えたということであり。
それはやはりそのいわゆる問題から逃げないでちゃんと向き合ったつまり対峙したからこそであったということは出来るでしょう。
いやだからこそもちろん対峙しないでいるのはラクで逃げたくなるのもわからないではないのですがそれでも大丈夫だからと伝えることしか出来ようもなく。
いや本当にあなたも「わたし」でしかないですから本当に大丈夫なのです。
そう「わたし」は透明で肉眼では見えません。
だからこそ黒子であってーーーだからこそ黒衣をまとってこの世界を謳歌している。
まただからこそ白一色の部屋に佇みバランスを取りながらあるのです。
そう天地あめつちが分かれる前のまた光が生まれる前の原初の「わたし」に常に在るのを常にも離れることなど出来ません。
そうしてわたしは再誕生しました。
さてこの世界は有限で無常に他なりません。
かのギリシャの哲学者アリストテレスが「物体は本来の位置に戻る」と提唱してからさらにはかのニュートンが万有引力の法則を唱えてからどれくらいの時間が経ったのか? わたしはよくわかりませんがーーーいずれにせよこの地上で重力や磁力にまつわる異常現象が起こることになるのは必至です。
それは宇宙ですでに起きているからで。
前回もまたいつぞやもちらと述べましたがそれはわたしたち人間を生きとし生けるものたちを強制的というべきか「わたし」に引き戻すことになります。
もちろんこれは表層的な話しであってあくまで暗示的なものに他なりません。
しかしながら誰もが今世で一区切りであることはもはや宇宙のシナリオに則っているのです。
結局それらをどうにか出来るはずだなどと期待するだけムダでやはりか本末転倒であることに変わりはありませんから自ずとそれは明らめるしかありません。
そうして逃げる場所はありませんからいうなら坐してそれを受け入れるのみ。
その終わりは始まりであり始まりは終わりでもあるのですから結局すべては救われています。
ですからなにも問題などはありません。
もしもあなたがこれまでのように滅することをつまり死を選んでもさして問題ではありませんがこれだけは忘れないでください。
それもまた自由であるが故にそうなったと。
さらにやはりか「わたし」は愛する子どもたちがここに今ここに還ってくることを変わらずも待っているということだけはどうぞ忘れないでいてください。
そう今ここは常に多次元で。
そうしてこの中心に止まるならやはりかなにも起きてはおらず眼前の世界はどこまでも無常でーーーそれはエネルギーの流れるが如くにありすべては「わたし」で「愛」でしかない。
愛する子どもたちの為にこそ創造した仮初めの世界から原初たる今ここに還ってくるのを今か今かと待っていてーーーいや誰もが一度ならずも日々体験していてどこかでは知っている至極当たり前のことであり特別なことなどでは全くありません。
それだけのことです。
そう仮初めの世界にあればこそ「わたし」にはこの身体が必要でその不自由さの中での自由を味わうことを選んだからここにいます。
その上で欲しいものは欲しいし要らないものは要らない行きたい所には一人で行けばよく行きたくない所には行かないお腹が空いたら食べて眠くなったら寝てーーー面白くないのなら別に笑う必要もなく悲しくなったら泣いてただときには嬉しくても泣いて違和感を覚えたなら考え間違っていることに間違っているといって知らないなら知らないわからないならわからないとそういえば終わる。
そうつまりはあまりに単純で。
そのすべては常に円環を描くようにその終わりと始まりが同じであるように自らに帰結する。
だとしたらなにが問題なのでしょうか?
だからリラックスしましょう。
もはやなにもかもが終わるのだとしたらなにも問題などありません。
あなたはあなたを生きるだけでただそれだけでそれ以外のことはもはやどうでもよいではありませんか?
そうしていずれにせよ寿命の日は訪れるのですからその折に潔く死ねるように今はただ生きることそう生きてこそです。
だから出来るだけ身軽にいきましょう。
ですから本当はこの身体一つでよいといいたいところではあるのですがそこはまあ一先ず季節がら衣更えということで必要最小限にしておくのがベストです。
そうわからないことはわからないままにわからないといえばいいーーーまたは知らないことは知らないままに知らないといえばいい。
そう老若男女の誰にとってもそれはあまりにも単純でシンプルかつ至極当たり前のことをただひたすら続ければよいだけのことなのです。
それだけでリラックス出来るでしょう。
そうそれは逃げなどではなくて明らめることであってかつ受け入れることでもあってなに一つ恥ずかしいことはないのです。
そうしてそれがその中心にその真中に止まるということに他なりません。
その真中はあまりに静かで余計なおしゃべりを聴くこともないでしょうーーーそう神は沈黙であって愛は見守るといわれる所以はその辺りにあるといえます。
ですからもはや明らめるだけそうしてただ受け止めてただ受け入れるだけでーーーあとは野となれ山となれでなるようになりますから放っておくのがなによりなのです。
そうすべて諦めて明らめましょう。
P.S. 今ここで。