この自由は詩う

今、このときをうたふ。

徒然なるままに

こんにちは。

 

 

先日こちらでも桜が満開となりました。

 

 

そう桜というときソメイヨシノがその代名詞のようになっていますが実は全国の数多あるそれたった一本のソメイヨシノからの接木つぎきよって存在しているのだということをあなたはご存知だったでしょうか?

 

 

斯くいうわたしは先日か初めて知りましていやはやお恥ずかしいかぎりとはこのことで。

 

 

やはりか結局のところわたしはなにも知らない知らなかったのだなあ思い知らされるキッカケとなったのも束の間その傍らで奇想天外な閃きも起こったのでここにひとまずはメモしておくことにしました。

 

 

 

いや信じるか信じないかはあなた次第

 

 

 

 

 

さてここからが本題です。

 

 

ちなみにわたしはくだんの団体とは一切の関係がありませんのでその辺りはご了承いただいてあくまで仮説としてお読みになってください。

 

 

いやこの想像力が半端なくたくましいのでコレ悪しからず。

 

 

 

ともあれその閃きとは以下のもの。

 

 

キリスト教聖典である聖書では人類の祖先がつまりアダムとされていてーーーそのアダムの肋骨でかイブが創られたとなっています。

 

 

そうそれを前提とするなら。

 

 

もしそうだとするなら前置きのソメイヨシノ話しに照らすとイブはアダムのクローンでしかないということ。

 

 

つまりはわたしたち人間の誰しもがいやそれがであろうともアダムのクローンに他ならないいうことになります。

 

 

コレお氣づきになりました?

 

 

 

要するにわたしもあなたもアダムのクローンであるーーーいや逆も然りですからあなたこそが正にアダムである可能性があるということ。

 

 

それが何千年何万年と悠久のときを刻もうともあなたはわたしは人類の祖先たるアダムでしかなくそれ以上でも以下でもない。

 

 

とどのつまりあなたは唯一無二の存在だということに他なりません。

 

 

 

そうさらにいうならあの身体もその身体もこの身体もなく実は世界にはたった一つーーーそうかの十一面観音にも見られるように正にわたしたちはたった一つの身体を共有しているということにもなり。

 

 

そうなんであれどうあってもあなたはわたしでわたしはあなたーーーそうして世界には今ここにはただ一人しかいない。

 

 

そうあなたしか存在していません。

 

 

そうあなただけが存在しているのだということ今ここでどうぞお氣づきになってください。

 

 

 

さらにあなたはその地球そのものです。

 

 

いやだってあなたしか存在していないとなるとその地球はあなたの身体そのものであるということにもなりそうなるとこれからあなたはどうされるおつもりでしょう?

 

 

そうすべてあなたに賭かっている。

 

 

 

いやどうなろうとよいのですよあなたの自由でしかありませんからわたしはあなたのその選択をただ受け容れ見守ることしか出来ません。

 

 

そうそれがその世界のルールでそれこそあなた次第だということに他ならない。

 

 

あなた次第で水の泡。

 

 

 

いやみなまではいいません。

 

 

わたしたち人間に与えられている時間にはどうあっても限りがありそれに逆らうことなど出来ないのは至極当たり前のことです。

 

 

また信じるか信じないかについてもあなた次第なのでお好きにどうぞとだけここはお伝えしておきましょう。

 

 

 

 

 

ところでそうした宗教というと信仰ですが。

 

 

ちなみにわたしの周囲にはその教派のみならず神仏を集団で信仰しているいわゆる信者さんがかなりかいらしてそのなによりは母で。

 

 

いや彼女の場合は信者といえるかも微妙ですがわたしが高校生だった当時か実姉の影響でその聖書は常に枕元にありました。

 

 

まあ集会と呼ばれるものなどに参加することもなかったようですが彼女の考えは現在もそれに似たものであることは否めません。

 

 

 

ともあれ前回「この世界は愛そのものでこさえられた」とまかり間違っても人間がこさえたのはなくそのずっと以前からつまりはアダムがエデンの園から追放されるその以前からすでに在ったのだと述べました。

 

 

つまりあなたはアダムでもあるわけですから今も尚その世界は愛で創造され続けているとしかいえません。

 

 

要するにすべてが愛で出来ています。

 

 

それなのにーーーいやそうでなくてもわたしの周囲の信仰者のみなさんは揃いも揃ってマスクを常にか着用していて。

 

 

コレ結局どちらなのでしょう?

 

 

ほら神とやらを信じているといいながらもその傍らでは舌の根も乾かぬうちにマスクを着けてその身を守ろうとしていますからコレ不思議でしかありません。

 

 

そう信じているといいながらその態度は応答は信じられないといっているに均しく。

 

 

その愛のなかに在って愛でないものーーー要はマスク常用者の方々は除菌殺菌を励行する方々は結局のところ愛を信じられないでいるというほかどのようにいい表せばいいのでしょう。

 

 

 

もしもあなたが神や仏を信仰しさまざまな祈りのことばを捧げながらもコロナ渦とやらの為に感染予防に励んでいるならどうあっても「信じられません」と正にその除菌や殺菌でマスクで表明していることになります。

 

 

そうしてそのことにすら氣づかないのですからーーー正に喜劇以外のいや悲劇以外のなにものもなくて

 

 

それが信仰とやらの限界なのでしょう。

 

 

 

 

 

さてこれまでに例えばこんなふうに考えてみたことはありますか?

 

 

もしも世界にあなたしか存在していなかったらそう眼前の隣の誰も彼もがいなかったらーーー今ここでその隣の誰かしらとケンカすることもましてや話しをすることもまた恋愛することもさらに失恋も結婚もまたは子育てもそのなにもかも出来るはずがありません。

 

 

想像してください。

 

 

そうしてあなたはその世界のアダムに違いなく唯一無二の存在に他ならないのです。

 

 

 

だとしたらあなたはどうなさるでしょうか?

 

 

 

P.S. その責任は重大です。