この自由は詩う

今、このときをうたふ。

知足の法

そう禅語に足るを知るということばがある。

 

 

いやちなみにこのことばは「自分の境遇に満足すること」さらには「現在の境遇などを自分に見合ったものだと受け止められるなら心安らかに暮らすことが出来るだろう」といったような意味である。

 

 

お氣づきだろうか?

 

 

そうつまり自らの身に問題も起きてさえいない時点またその段階においてその安樂に満足することを抜きにして余計な手立てを講じることの愚かしさというのかそういったものを戒めるといったニュアンスでも現代においてこのことばの味わいはとても大事やも知れない。

 

 

そう長らく生きてこられたであろうご高齢の方たちなら尚のことそのお迎えがやはり間もなくやも知れないとーーーいやそれがいつになろう構わないとそのどこかしら片隅にいくらかも留めながらその余生を丁寧に生きるというのはやはり大事だといえよう。

 

 

いやもちろん年端のいかない子どもであろうとお迎えが来ることはあるしはてまたこの世界に生まれることの出来なかった胎児もいただろうことそれらを知っているなら誰であれ関係なく当事者意識をもって日々を過ごすことは大事でそれぞれがそれぞれに今ここに生かされているということそれがどれほどに有難いことであるのかにもはや氣づいていても決しておかしくはないのだ。

 

 

 

しかしながら逆さまだ。

 

 

いやもしもこの足るを知るを知っていて感謝の出来ている人間はまさかの真逆その身体に未だ起きてもいないなにかしらについてあれやこれやと余計な手立てを講じることなどないだろうしその未体験のなにかしらについてわざわざも恐れなどを抱くことすらないだろう。

 

 

しかしながら

 

 

そう彼ら自身その未体験であろうなにかしらのにワクチンという代物を接種しようとするがそれはつまるところガン患者でもないのに早々抗がん剤を投与するようなものでーーーそう彼らはそのことにすら氣づかないままその行列に並ばんとしているわけだ。

 

 

いやはや彼らは一人はおろか何人の生贄でなら事足りると仰るつもりなのだろう?

 

 

いやそれは明らかに時代錯誤でしかなくやはり迷走していてその勘定にご自身も含まれていることにすら氣づいてもいない。

 

 

そうあの「もしかしたらもしかすると」の秘薬に耐えられる人間などいないだろう。

 

 

もはや今ここで足るを知ることに尽きる。

 

 

そう今を丁寧に生きることだ。

 

 

それで十分だ。

 

 

 

 

 

P.S. そうしなければならないことなどはない。