この自由は詩う

今、このときをうたふ。

肉体の門

そうたしか映画にあった。

 

 

いやとはいえこれかといって無知なので申し訳ない Wikipedia から大まかにかい摘むとテーマは「肉体の解放こそ人間解放である」と戦後日本の喧噪のなか作家田村泰次郎が「群像」という小説に発表したものをかの五社英雄監督が采配をふるい映像化したものだ。

 

 

してそのエロティシズムに偏っているところはともかくも正しくテーマにある肉体の解放こそ人間の解放となる。

 

 

 

そうわたしたちの誰しもがこの肉体の門を前に世界を眺めているということ。

 

 

いやこの肉体の門は常に世界に固定されていて実はわたしたちはそれそのものではないということにほかならない。

 

 

してこの門それ自体はたしかに体験につき必要不可欠であるといえるものだがそれはさておきまま是非ここで想像してみよう。

 

 

いやわたしたちはその死の瞬間をこの目で見ることは出来ないということしてそれはまま眠るかのようにまた寝落ちのように起こるだろうというほかないがとなると人類史とやらに於いてその語られてきただろう死とはそのなににつき語っていたことになるのか。

 

 

そう死は本当に起きているのか?

 

 

 

いやところでわたしは常にわたしだった。

 

 

そうこの肉体の門はありありと女性でかついわゆる男性に恋をし男性と恋愛をし失恋もしまたときにスカートを穿きときに髪長くと云々あるわけだがそのなにもかもが女性だからだという理由にはなく常にただわたしだったというほかはないということ

 

 

してやはりわたしは常にわたしでまた性同一性障害とやらの類では全くなく男でも女でもないこの自らはこれにほかならずもはや正しくこれひとつでなにものともいえないものだというほかない。

 

 

いやなにひとつも問題はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.S. して理解でない体得こそが肝要だ。