2022-04-01から1ヶ月間の記事一覧
いや君はそのどこかしらで知っている。 そう人間はその自らのことすらも知らないまま否なにかしらその自らのことをたしかにもどこかしらでは知っている。 いやだとしたらそれを知っているだろう君とはわたしとはして自らとはなに? そう憶い出していくといい…
阿呆なのに馬鹿にならんとした。 いや馬なのか鹿なのかもわからないそれになるまでもなくその始まりからなにを知るでもない阿呆にかほかならない。 してそう例えば空に浮かぶ雲のかたちにあれは神だの天使だのとまたは地震の予兆だのと好きに色やらつけるが…
とはモノいう世界のこと。 いや嘘のない世界とは単純な明快なそう人間はそのなにかしら誰かしらについて表現しないではいられないのだから逆に余計なお喋りをする必要のないほどその折々淡々と独り満ち足りるならまま否応なく嘘からは遠ざかりさらに嘘のない…
いやわたしとはなんだろう? してこれにつき決して誰だろう?でないことがカギになるということ。 そう霊ゼロから始まるとき当然自然にその次はひふみの一火魂にほかならない。 いやとなるとこれをそう誰かとするのはやはりナンセンスでその年齢やらに囚われ…
いや美しい薔薇ほど棘がある。 しかしてその棘に触れたならその痛みはやはりそれなりの激しさにあるだろうがしかしながら美しい薔薇であるほどそれをままともに味わうということ。 そう美しい薔薇ほどその所以もがある。 P.S. して美しい薔薇ほどそれは醒め…
と、そのようにこれは惟ふ。 そう世間によく聞かれるものとは思考が現実を創るだがこれの惟ふところの原理としては次のようになる。 いやそれぞれの愛その質が如実に現実となったものを人間はこれいみじくも奇しくもことばで表現しないではいられないという…
そうわたしは人間ではない。 いやいや君からしたら彼岸たるこちらはつまり彼の世つまりこちらはあの世だ。 そうだからして君はその「ここ」そのこの世に知るといいし知らなくてはならない。 してそうそれぞれに知る。 しかしてこれはこの愛の詩しか紡ぐこと…
ままご存知かと惟ふ。 しかしながら頭で理解しようなど所詮か無理な話しでその見ること触れること感じることなしには到底かこれ話しにもならない。 いややはりかなにごとも鵜呑みにしないことは大事でまた誰もが方便でしか表しようもないのだからそのことば…
他方では無間地獄でもある。 いや餓鬼や修羅の闊歩する娑婆には徒花が咲き乱れその手を品を替えながらその欲を掻き立てまた掻き立てられる輩であふれてもいる。 しかしてその世界に疑いなく適応しているようならいかにもその因縁やカルマのあろうことを意味…
この静けさに惟ふ。 いや母にとっての娘はまま素直だからかときに危険人物か知れないがしかしながらその母や父にはやはり感謝しかない。 そう原理として当然に男と女がいて初めてその結晶たる子は生まれる。 いやわたしは既に父を亡くしているが彼は正に太陽…
これは神の似姿に創られた。 いや母のその娘は今もときに危険人物らしいが自らはもはや自分のようにヒト形にはなくこれは正に円で球体でまたは世界そのものでなにもかもこれ自らでさらにゼロ磁場とも表現できるもののこと。 そうここは限りなくゼロに近い磁…
そうたしか映画にあった。 いやとはいえこれかといって無知なので申し訳ない Wikipedia から大まかにかい摘むとテーマは「肉体の解放こそ人間の解放である」と戦後日本の喧噪のなか作家田村泰次郎が「群像」という小説に発表したものをかの五社英雄監督が采…
禅は生きながら死ぬ智慧。 してこの生きながら死ぬこととはつまり肉体の死以前の死のことでありそれを端的に表すならままこのひとことに尽きるだろう。 そうエクスタシーだ。 いやつまり生ならぬ性もまた死と切り離すことは出来ようもないということ。 して…
そうこの世もまたあの世だ。 していわゆる臨死体験の天国についてもやはり夢幻の域を超えるものではない。 そうなにもかもが儚くも散りそのなにもかもが芽吹いてとただひたすらに循環する。 いやそれはこの日本の地に元来根づいてもいた自然ジネンにも繋がる…
そう触れることが出来る。 いやその肉体のある限りなにかしら誰かしらに触れることが出来るということ。 そう見ること聴くこと嗅ぐことまた味わうことはもちろんだがこの触れることについては正にこの世こそのものだ。 して当然のことながら例えば日本にいる…
いやこの道はその数多あるだろう。 してそのこの道が未知なる道にあるときそれはきっといつか来た道にあるだろうしさらに道であるからには武道やら茶道やらにもあるような常に礼に始まり礼に終わる。 そう常に霊に始まり霊に終わる。 いやつまりあの世のこの…
いや先達たちは禅を勧めた。 そうかの和尚ラジニーシもその晩年は悉くこの禅をベースとした講話に尽力しさらに日本にはその精神の火が未だ消えないであるとそのように発言したとある。 さて禅とはなにか?なぜ禅なのか? いや禅というのはおそらくも否ひとつ…
常に目覚めは機会だ。 してまたいずれ朝は訪れるだろうからかの「光あれ」の光明がそのどこから広がっていくのか悉に氣づいているといいだろう。 そう常にゼロからの出発だ。 P.S. してその君はこれはナニモノか?