この自由は詩う

今、このときをうたふ。

闇に紛れる者たちへ

こんにちは。

 

 

これは先日の夜も更けたあれはたしか午前一時三〇分頃のことでした。

 

 

 

それは闇の中から足音とともにガサガサと音がしたかと思ったら、なにかしらプラスチックのボードのようなモノを通りのアスファルト部分に叩きつけるような音が響き渡ったのです。

 

 

そうして間もなくもその音は止みましたが今度は翌朝七時前、その放られたままだったらしいモノを拾い上げてなのかどこかにバーンと押しつけるように置いてその直後わたしの自室脇を取り囲むようにしてある縁側の路を走り去ってゆく足音が聴こえました。

 

 

 

そう、お氣づきのようにこれはわが家について起きたことでしてまあこんなご時世ですから?なにかしらのストレスを吐き出したかった誰かさんがおられたのでしょうねーーーその理由はもちろん当人でなければわかりませんが。

 

 

 

 

 

さて本日は、このなかなか経験できないだろうエピソードを踏まえての本題です。

 

 

まあそうはいってもわたしは痛くも痒くもないのでその点はご了承いただきましてーーーこの誰かさんとやらがどなたなのか? いやどなたであっても構わないのですが一先ずこの先は彼としておきましょう。

 

 

 

彼は深夜も深夜、暗闇の中でそれを為しましたーーーいや暗闇の中だからこそそれを為したといった方が妥当やも知れません。

 

 

そう彼は闇に紛れてしかそれを為すことが出来なかったし出来るはずもなかったということ。

 

 

あなたもお氣づきかと思いますがそれは自分が誰であるのか? を他の誰にも特定されるわけにはいかなかったからに他なりません。

 

 

 

それはつまり?

 

 

はいエゴの仕業だからといえますが彼はそれに氣づいてはいないのでしょうーーーいや氣づくことが出来ないからこそそれを為したのです。

 

 

 

それはただただ不憫きわまりないことで、 また人間とはやはりか弱くて愚かな生きものなのだと痛感するばかりですがーーーそうそうあなたもご存知かな?

 

 

妖怪人間ベムというアニメーションーーーほら闇に隠れて生きる、俺たちゃ妖怪人間なのさ。

 

 

となると妖怪というのは人間の弱さや愚かさを象徴的に偶像化したモノのことをいうのかな?となる次第ですが、それでも彼らは人間になりたくてその良心に従って為しているだけ救いもあるということなのかも知れません。

 

 

 

ともあれ彼はただただ感情に囚われてしまったのだろうことは一目瞭然。

 

 

そして彼はその行為が他者には決して知られてはならない恥ずかしいことであるのを知ってはいたーーーけれどどうしても止められなかったということになるのでしょうね。 

 

 

きっと虚しくてたまらないと思います。

 

 

 

 

 

さて、 わたしたち人間の誰もが弱くて愚かしいまた欺瞞に満ち満ちていてズルいのはご存知のとおりですがそれを知っているからこそ変わることが出来るのも、変わろうと意図できるのもまたご存知だろうと思います。

 

 

自分もその人間であるからこそ、 つまり不完全だからこそ他者の弱さや愚かさを許容できるしお互い様と受容できる。

 

 

もしかしたらそれさえも、現状の世間とやらでは忘れられてしまったかのように暴走し続けているのが、ここからは垣間見えてなりませんがーーー変わろうと意志できるのは意図できるのは世間という全体ではなくそれぞれである彼でありまたわたしでしかありません。

 

 

そしてあなたでしかない。

 

 

全体といえる外側の大きな枠組みを大きな力をやっつけ仕事のように徒党を組んで責めてみたところでそれに参加したそれぞれがそれぞれの意識こそが自ら変わろうと意志し実際に変わらなければ結局は元の木阿弥となるでしょう。 


 

 

だからこそ常に氣づいていること。

 

 

つまり自らの為すことに常に意識的であろうと心がけるだけで彼のように余計な行為におよぶことはなくなります。

 

 

そう前述したように彼は、暗闇に紛れてなんの罪もないプラスチックのトレイをアスファルトに叩きつけーーーそうして結局は、それを朝になってお天道様の見ている前で誰かに見られる可能性が大いにある中で元あった位置に戻す為にヒヤヒヤしながら行動するに至りました 

 

 

彼はとにかく自分以外の誰にも見られるわけにはいかなかったから深夜帯を選んだのに、結果として誰かに氣づかれる可能性のある時間帯に引きづり出されることとなり相当に焦ったことでしょう。

 

 

だからこそわざわもその家人たる誰かしらが壁を一枚隔てているだけの縁側の路をここが近道だからというだけで足音を立てながら走り去り氣づかれる危険を侵したのです。

 

 

 

ところでこの「闇に紛れる」をことばそのままに捉えていただく必要はありません。

 

 

これはいうなら他者にバレないように見つからないようにそんな意として捉えていただいた方がむしろ助かります。

 

 

 

これまでも何度か述べましたがこの国の政府やマスメディアが為していることや国民に見せているものも、つまりは国民それぞれが直に目にすることの出来ない密室のような場所において決められ為されていることです。

 

 

それらを鵜呑みになさるのはどこまでも容易なことではあるでしょうけどーーーそのリスクや責任を終いには彼らに押しつけたらいいとそのふだん氣づかない無意識下でお考えの上に付き従っているのだとしたら考え直された方がよろしいかと思います。

 

 

 

いや自由、いやそれは自由とはいえません。

 

 

自由とは読んで字の如くどこまでも自らに由るモノで自分に由るものではないのです。

 

 

ましてや、 他者が寄せ集めて並べ立てたものをそのまま選んだことを自由とはき違えてーーーそれは明らかに仕向けられて選ばされているとしかいいようがありません。

 

 

 

ですから一度立ち止まるのもアリでしょう。

 

 

そしてこれは前述したように、全体をどうにかすること以前の問題として一人一人が変わろうと意志しないことには意図しないことにはなにも始まらないということです。

 

 

 

始めに空っぽの国があって人々が集まってきたのではありません、人々が集まってきたところに国が出来ましたーーーいやこれまたかの「卵が先かニワトリが先か」の話しでもありますがこれだけは断言できます。

 

 

この日本の国民と同じように弱くて愚かで欺瞞に満ち満ちていてズル賢い人たちがこの日本の表舞台に支配層として名乗り出ました。

 

 

すべてにはそこにはたしかに、程度の差はあるでしょうーーーしかしながら源から見れば同じこと、人間とは誰もが弱くて愚かで欺瞞に満ち満ちていてズルいのです。

 

 

そしてそれこそがエゴつまり自我であり、実はそれは未だかつて存在したことのない幻でしかありません。

 

 

 

それはまあさて置いて、 わたしはそれに嫌氣がさしたから変わろうと肚をくくりました。

 

 

もうかなり前のことになります。

 

 

誰かしらのせいに国の責任にするのはあまりにも容易なことですがそれではなにも変わらないので自ら考え始めました。

 

 

いやもちろん道の途中か知れません。

 

 

 

ただあえてもいっておくと「多様性」が声高に叫ばれる昨今の現状にわたしは違和感しきりでやはり呆れています。

 

 

だって初めのはじめから世界のどこを見渡しても多様性がそのベースであるのは明らかなのにわざわざも 「BLACK LIVES MATTER」 などと声高に叫んでいることについても正直サッパリわからない。

 

 

それらはある意味では可笑しくてそのわりには全くもって笑えないのです。

 

 

あなたはお氣づきになっていますか? いやもうそろそろ氣づいてもよい頃か知れませんよ。

 

 

 

 

 

さてさて他者を自分の都合で上手いこと騙せたとしても、自らを騙すことは絶対に出来ませんーーーそれがいつなんどきでもどこにあっても彼の内側にいや彼をたしかにも取り巻いているいわゆる神仏と呼ばれる命のエネルギーはその一挙手一投足をすべて見ているので、 これからその当の彼が辛くなるのは目に見えていることなのです。

 

 

いや既にも彼が、肉体的にも精神的にも労苦を味わうこととなったのがおわかりでしょう。

 

 

そうしてわたしはというと実際のところ痛くも痒くもないわけですが、プラスチックのトレイを演じている鉱物という生命はさぞも痛かったことだろうと思います。

 

 

 

ですからわたしはなにを為す必要もありませんーーーそれはつまり彼を特定する必要もその彼になにかをいう必要もそうして彼を変えようと尽力する必要もないのだということ。

 

 

しなければならないことなどないのです。

 

 

 

それらの結局はなにをせずともーーー前述したとおりで「自らを騙すことは絶対に出来ない」ということでもあって彼こそにすべて帰結するようになっています。

 

 

ですからそちらは放っておけばよいこと。

 

 

 

だからこそこちらが肝心です。

 

 

先にも述べた多様性、それはつまり誰もが少なからず違っているのが当たり前という意でそれこそが前提なのですからその表現もさまざまであってなんの不思議もなくーーーさらには善でも悪でもないということになります。

 

 

 

ただここで要となるのはそれが「愛」と呼ぶにふさわしいことなのか? を自らで吟味すること吟味できることなのです。

 

 

どのような表現つまりはなにを為すにせよ為さないにせよ、自らの内側で「愛」と呼ぶにふさわしいことであるのかどうか? をよく吟味した上で違和感なくそう思えたのなら「思い立ったが吉日」為してみるのもよいでしょう。

 

 

なにを為すかよりどう為すのか?

 

 

 

しかしながら失敗も、いや痛みもそうした苦い経験さえも糧になるのはたしかですからーーー彼のように躓いてみるのも決して悪ということではありませんしそう片づけてしまうのも尚早かと思います。


 

すべては起こるべくして起こる。

 

 

 

ですからなんにせよ彼次第ーーーわたしはそれに口を出す立場になど始めからありません。

 

 

だからこそ「他人のふり見て我がふり直せ」る機会としてこれもまた感謝して、 自らの表現に活かせることを活かすことがなによりであるといえるでしょうか。

 

 

 

 

 

国に政府にマスメディアに対抗するより先ずは一人一人が自らの知っている「愛」に照らした良心に従って自らを表現をすることーーーそれはあくまで独自性という類いのモノであり意のモノです。

 

 

それは親子であれ夫婦であれ友人であれ、またご近所さんであれ同じ国民であれ同じ地球人であれ、たしかに違うーーーそれぞれの独自性をその多様性を前提とした地点に各々が戻らない限りなにも始まりません。

 

 

 

この世界を日本を誰もが暮らしやすく笑顔あふれる場所にしたいのなら全体を変えようとする以前に他者を変えようとする以前に、あなたが変わることを意図し意志し肚をくくること。

 

 

どうあってもそれしかないのです。

 

 

 

かの「大は小を兼ねる」これはご存知かと思いますが元々その「大」とはさまざまな「小」を集約したからこその「大」であることを先ずは思い出してください。

 

 

つまり大は全体はさまざまな小つまりさまざまな独自性があってこそ生き活かされる。 

 

 

だからこそわたしは「わたし」を生き、あなたもあなたのいう「わたし」を生きるだけでその全体であるものはその最たる独自性をとり戻すことになります。

 

 

そうわたしのわたしが「愛」であればあなたのわたしが「愛」であればそうした「愛」の集約した全体は自ずと「愛」でしかありません。

 

 

 

そうして次はかの「急がば回れ」の如く各々が地道に自道に取り組むだけ。

 

 

それにはどこにも近道などありません。

 

 

 

 

 

ちなみに、他者から借りたものを寄せ集めれば集めるほどあなたは精神が分裂しつまり「精神分裂症」となりわたしは誰か? 当にわからなくなっている可能性があります。

 

 

ですから最初が肝心で、 自らで意志し意図しなければならないときがあるということは心して知っておいてください。

 

 

 

 

 

さて折しも次の話しが飛び込んできました。

 

 

その闇に紛れる者の一人でもある政府の人物がこれまでの不正直を悔いてのことか? ある人物に真実を託したのだそうです。

 

 

既にご存知やも知れませんが、その発言の内容は「今回感染した人は殆ど発症しません。ただ不幸にして熱が出たとしても二週間寝ていれば治ります。 その人にとってはこれから出るどのようなワクチンよりもちゃんと免疫が出来るんです。ただそのことは伝えられない。 コレ国がいうと大炎上するからです。 なのでそれは言えません。今回こちらに戻ってくるときにXさんから頼まれました「E君、地元に帰るんだったら直接に顔を付き合わせて向かい合ったときにだけ伝えられると思うんだけれども正しい情報を伝えてほしい」と。そのことがわかるだけで相当安心は出来るんです」とのことだそう。

 

 

 

信じる信じないの次元の話しはしていませんしするつもりも正直ありません。

 

  

ただこれは事実です。

 

 

 

そう人間は人になるまでの途中つまり間だからこそ人間と呼ばれています。

 

 

つまり進化することが定められている存在だといえばあなたにも伝わるでしょうか。

 

 

 

ですから大丈夫。

 

 

あなたも変われますーーーほら闇に紛れていたお人もどこかで覚悟を決めたのですからあなたにも出来ないことではありません。

 

 

 

ですからあなたも先ずはあなたの為にこそ勇氣を出してください。

 

 

わたしもあなたもこの世に生を受けたときから唯一無二かつそれに代わる誰かなど存在しない地点から始まりましたーーーつまりその多様性と独自性は備わっていました。

 

 

その誕生を世界がすべてがどれほどに喜んだか知れません。

 

 

 

だからこそなのです。

 

 

わたしが「わたし」を生きるように、あなたもその「わたし」を生きるだけーーーそれだけで世界はその多様性の独自性のあるがままにあり続けることが出来、なんの問題もなくスムーズにそのエネルギーが流れ始めます。

 

 

 

そうして次のその再誕生を成し遂げられるのはそれが誰であれ「わたし」だけーーーそうしてそれは自ずから世界のすべての為なのです。

 

 

その鍵は「愛」。

 

 

 

巷で話題の大地真央さんのあのセリフそのままにやはり、そこに「愛」はあるんか?

 

 

 

P.S. にほんから始まります。