この自由は詩う

今、このときをうたふ。

ある道歌の音色

おはようございます。

 

 

手持ちの鈴れいを韻を踏むように鳴らしながら心の闇を照らしますーーーと始まる三宝御和讃さんぼうごわさん、いわゆる御詠歌ごえいかをあなたはご存知でしょうか?

 

 

今は亡き祖母は曹洞宗の檀家で御詠歌に親しみおばあちゃん子だったわたしもいつもその隣に座って祖母の歌声に鈴の音色に耳でいや全身でもって親しんでいたような氣がします。

 

 

その歌と音がふともこぼれたのは昨日のこと。

 

 

 

その曹洞宗と同じく禅系宗派である臨済宗にはとかく有名な白隠禅師やその師である正受老人しょうじゅろうじんこと道鏡禅師がおり例えば白隠禅師は「衆生本来仏なり」または坐禅和讃ざぜんわさんでも知られていますし道鏡禅師は「一日暮らし」つまり一日が一生というような意のことばでも知られていてーーーわたしのみならず現在まで数多の人間を励まし癒したことか知れません。

 

 

とそんな折の連想の中でそれは起きたのでしたーーーとあることばとの出会い。

 

 

 

そうして正にその出会いを待っていました。

 

 

 

 

 

さてここからが本題です。

 

 

前回は太陽について少し触れました。

 

 

それはーーー太陽はただただ太陽として太陽に成りきりただ置かれた場所に存在しているだけなのでそれ以上に特別なことはなにも為してはいないのですと。

 

 

 

ただ誤解のないよう補足しておくと太陽は自らを太陽だと知った上でそのように在るのでなくただ存在しているということのみをおそらくも知っているのだということについてはおわかりになるのではないかと思います。

 

 

いつなんどきにあってもどこに置かれていようともただただその瞬間に今ここに存在しているーーーつまり時間も空間も超えてただただ存在しているということ。

  

 

またこの点についてもあえて補足しておきますと空間も超えているわけですからどこそこにというような緯度と経度の掛け合わせでか表せるような地点にではなくそれはいうなれば「無限遠点」にあってーーー実は今ここで眺めた太陽までの距離だといわれる約一億四九六〇万キロメートルというものは発生などしていません。

 

 

つまり今ここにおいてそれを見たなら今ここにそれは存在しているということ。

 

 

ですから約八分前の光が届いているなどという戯言は、もはやご勘弁いただきたいとそのように思う次第で。

 

 

 

ともあれ話しを戻しますがーーーその太陽その自らと対面・対峙しているあなたやなにかしらが自らをどのように見て解釈しようともやはりかその点は「お好きにどうぞ」といった風にか関係はないわけでつまりそれが成りきるということであってただただそのように存在しているということが出来ます。

 

 

この点おわかりでしょうか?

 

 

 

 

 

さてさて愛について例えとした太陽をいや太陽だけに止まるものではもちろんありませんが正にそれを表したことばに昨日出会いました。

 

 

それが至道無難禅師しどうむなんぜんじの法語ならぬ道歌。

 

 

ちなみにその至道無難禅師に前置きの道鏡禅師が教え導かれたとのことからひいてこの道歌を見つけることになったのでーーーつまりは亡き祖母白隠禅師に道鏡禅師に導かれた出会いだといえるのかも知れません。

 

 

 

ともかく肝心の道歌は以下のものです。

 

 

 

「生きながら  死人と成りて成り果てて  思いのままにする態ぞよき  いきながらしびととなりてなりはてておもいのままにするわざぞよき」

 

 

 

ご存知でしたか?

 

 

ですからそれがなんであれ一足飛びにとはいかないまでも一先ずは太陽を目指すーーーつまりはそうこれは目標という意味でもあります。

 

 

そうして思い出していくのです。

 

 

 

ともあれ太陽の話しはこれに尽きることはなくそこに秘められたモノやコトを追って表現しておこうと思っていますのでそれは早ければ次回かそれ以降に。

 

 

ゆえに今しばし「生きながら死人と成りて成り果てて思いのままにする態ぞよき」のことばをあなたなりに咀嚼していただけたらコレ幸いに思います。

 

 

 

では本日はこれにて。

 

 

 

P.S. 耳で心ですべてで咀嚼してください。