この自由は詩う

今、このときをうたふ。

いずれにせよ

わたしたちはいずれにせよ死ぬ。

 

 

いや釈尊もイエスも死んだ。

 

 

はてまた秦の始皇帝アドルフ・ヒトラーまたスターリンも世界のクロサワ黒澤明もさらにはわたしの敬愛する和尚ラジニーシも死んだ。

 

 

そう彼らにも均しくお迎えは来たのだ。

 

 

いやお迎えと聴くとどこか別の場所そう天国や地獄などに連れていかれるのだと考える方たちもおられるやも知れないがそうではない。

 

 

そう彼らもまたここに在る。

 

 

 

いやちなみにあなたはこの世のことをこの世と此岸と呼びあの世のことをあの世と彼岸と呼ぶだろうがあの世の住人はあなたにしての彼岸を此岸とこの世と呼びあなたにしての此岸を彼岸とあの世と呼ぶ。

 

 

コレおわかりだろうか?

 

 

そうお迎えが来たといってもどこか別の場所に赴きまた連れていかれるわけではない。

 

 

そう単にその肉眼では見えないということだ。

 

 

いや肉体はこの世だけのものだ。

 

 

そう「わたし」は死なない。

 

 

 

いやその姿はその目に映らずその声はその耳に届かずその匂いはその鼻に触れずその熱はその肌に伝わらない。

 

 

いやそれでもわたしたちが故人を想うときその故人はわたしたちの内に存在している。

 

 

そう時間も空間も超えてわたしたちの内でこそ彼らに再会することが出来る。

 

 

そうしてこの世とあの世を分け隔てることなど出来るはずもない。

 

 

そうつまり此岸は彼岸で彼岸は此岸だ。

 

 

そうだからして天国と地獄ではなく天国は地獄あって地獄は天国である。

 

 

そうこれはつまりそれぞれの霊性そのレベルによるものでしかないからしてこれもまた分けることなど出来ない。

 

 

そうしてつまるところ生と死も同様に分けられないモノであることは必定で生は死であり死は生でありーーーそう互いに包み包まれているということも出来るだろう。

 

 

そうしてすべてここに在るのだ。

 

 

そうわたしたちの誰においてもここから離れることは出来ないしここでこそ変化変容してゆくということ。

 

 

そうしてあなた次第でその世界は天国にも地獄にもなるーーーいやそれに氣づいているか否かそれについてさえあなた次第。

 

 

そう解釈や意味づけでがんじがらめとなりそれに翻弄される世界に生きるも善しはてまた生きとし生けるものの輝きに触れながらのびのびと生命を謳歌する世界に生きるのもまた善しだ。

 

 

そうそのどちらを選んでも問題ないがどのみちお迎えは来る。

 

 

だから先ずはリラックスするとしよう。

 

 

 

 

 

P.S. そう瞑想などいかがだろう?